卑弥呼の墓の大きさは? イメージ先行ぎみの倭人伝


高島忠平さんが語る邪馬台国九州説。その続きをご紹介します。





■邪馬台国を考える前提、5つの条件

 

邪馬台国を考えるにあたって押さえないといけないポイントが、私は5つほどあると思っています。



(1)「クニ」の成立をしっかりと押さえること

(2)環濠集落(防衛システム)が存在すること

(3)国際的要素

(4)巫女王の役割と出現の過程

(5)卑弥呼の墓の規模を示す数字の問題



これらをひとつずつ見ていきましょう。



吉野ケ里
【写真】再現された環濠集落と柵=佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡



(1)「クニ」の成立をしっかりと押さえること
九州には「末盧(まつろ)国」「伊都(いと)国」「奴(な)国」など、魏志倭人伝の中に具体的な名前が出てきており、現在の佐賀県唐津市や福岡県糸島市、福岡市であることがはっきりしてきています。そうしたクニが近畿では確認されていません。 





(2)環濠集落(防衛システム)が存在すること
魏志倭人伝の中には、女王卑弥呼の居館は「宮室、楼観、城柵、厳しく設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と出てきます。この中にある「城柵」が、当時でいう「環濠集落(かんごうしゅうらく)」。敵の襲撃に備えて、周囲に堀を巡らした集落がこれに当たります。



この環壕集落は「邪馬台国がある」とされる年代に、佐賀県の吉野ケ里など九州内では遺跡が見つかっています。しかし、近畿では同年代のものとされるものが見つかっていません。

 



(3)国際的要素
「国際的要素」においては、有名な福岡県志賀島の「金印」などが九州説の最も強みとするところです。九州内では多くの遺跡で大陸の文物が出土します。また当時、通貨として用いられていた政治・経済の戦略的物資である「鉄器」の出土が、九州では極めて多いのも重要なポイントだと考えています。





(4)巫女王の役割と出現の過程
卑弥呼は、三十国によって共立され、優れた霊能力をもったシャーマン(呪術者)の王と考えられます。北部九州では、弥生時代も中盤にさしかかるころに一定の社会的地位をもった巫女が現れることが墓の埋葬品などからわかっています。そのようすは、佐賀県唐津市の宇木汲田(うきんでん)遺跡などから分かります。



また、佐賀県神埼市の花浦遺跡などでは、貝の背中で作った腕輪をもった、呪術者とみられる女性の遺体が、身分の高い集団の墓に埋葬されています。このことからも、呪術的な要素を持った巫女が、社会的地位を得ていったようすが明らかに見て取れます。



弥生時代も中期後半(紀元前1世紀末ごろ)になると、男王とともに、巫女王が一国の支配を担うようになりました。福岡県前原市の三雲遺跡や、飯塚市の立岩遺跡には男王の墓と巫女王の墓がそれぞれあり、その当時の支配のようすがうかがえます。男王は世俗的権威、巫女王は聖体的権威をつかさどっていたとみられます。



こうしたクニは当初小規模でしたが、やがて、弥生時代後期後半(紀元2・3世紀)には、数十の国々を支配する巫女王が出現します。彼女らは、大量の破鏡とともに埋葬されているのが特徴です。これは、強大な霊力を持つ巫女王がよみがえらないよう、霊力を封じ込めるためだったと考えられています。こうした埋葬方法は、福岡県糸島市の平原遺跡などでみられますが、昨年12月に佐賀県大和町の尼寺一本松遺跡から見つかった「破鏡」も、もちろんこの一例です。



尼寺一本松遺跡の甕棺墓
【写真】中国製の青銅鏡が出土した佐賀市大和町の尼寺一本松遺跡の甕棺墓。鏡は直径11センチで、甕棺の外側に四つの破片が並んだ状態で見つかりました。周辺で見つかった16基とは異なり、この甕棺にだけ赤色顔料が塗布されていたことから地域集団の首長層、呪術者の甕棺ではないかとみられています。



北部九州ではこのように、強大な権力を持った巫女王・卑弥呼が生まれるまでの歴史的過程を遺跡や埋葬品などから確認することができます。近畿地区で見つかっている巨大遺跡などは、周辺にこうした歴史的過程がたどれず、「突発発生的」である印象が否めません。このように、歴史的背景を発掘史料などから丁寧に積み上げていくことができる点も、わたしが九州説を唱える大きな根拠のひとつです。





(5)卑弥呼の墓の規模を示す数字の問題


<魏志倭人伝・卑弥呼の死の項>
卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢百余人。


口語訳:卑弥呼が死んだとき、大きな「陵(墓を置く広大な土地)」が作られました。その陵の直径は百歩余りもあって、百人以上の奴隷が殉葬されました。






魏志倭人伝には、上記のような記述が見られます。しかし、卑弥呼の墓は、「径百余歩」でなくてもよいのです。小型の周溝墓(しゅうこうぼ)=周囲に溝をめぐらせた盛り土の墓=でも良いのです。その理由は、魏志倭人伝に記述されている「万以上の戸数…」などの数字は、信憑性が低いものが多いためです。その背景には、中国最古の地理書で日本に関する記述も見られる「山海経」など、紀元前から続いていた中国の倭人観(日本人観)があります。

 

そのイメージとは、「倭人は遠隔の地にあって、不老不死・長寿の薬草を産する理想郷だ」という捉え方です。マルコポーロが日本について表現した「黄金の国 ジパング」などのイメージは、その極めつきの一例と言うことができます。



このような観点から、魏志倭人伝の史料批判が必要です。



たとえば、距離の記述です。魏志倭人伝に出てくる距離は、魏の基準尺と合いません。魏志倭人伝に出てくる数字をそのまま解釈すれば、戸数(家の数)は伊都国・奴国とも、奈良時代の人口より10倍近く多いのです。「倭人の寿命が百歳以上である」という記述も、現代と照らし合わせてみてもそのまま事実とは考えられません。



「百余歩の墓」という記述は、魏や晋など中国の理想社会の皇帝の墓が、およそ百余歩とされていることと一致します。つまり、日本の王も中国の理想的な皇帝と同じようなものだと考え、それに合わせた可能性があります。これらの点から、魏志倭人伝に出てくる数字を、考古学的な根拠と直結させることには危うさがあります。



さらに視点を変えてみましょう。卑弥呼の墓は、必ずしも邪馬台国にあるとは限らないのです。卑弥呼は、30国が共立したクニの王で、それら30国のどこかの国の出身である可能性もあるのです。クニの長たる邪馬台国は、その30国のうちのひとつにすぎません。古代の大王は死後、その多くは出身国に埋葬されていました。邪馬台国に卑弥呼の墓がある確率は、言ってみれば「30分の1」なのです。こう考えてみると、北部九州に位置し、古代に国があったということが明らかな地域に卑弥呼の墓があるとも考えられます。わたしは福岡県前原市にある平原遺跡の1号墓ではないか、という可能性を考えています。





■モノホン主義ではなく

 

魏志倭人伝に出てくる邪馬台国というクニが、当時の日本最大の国と思いこむ必要はありません。当時、邪馬台国とは別に、同等かそれ以上の国が日本国内にあったと考える説もあると思います。宮殿跡など何か「物」が見つかったら、すぐにそれを邪馬台国に結びつけることや、魏志倭人伝の記述にあるように、フィルターがかかっている可能性のある文物(本)をそのまま根拠として邪馬台国に結びつける「物・本主義」に陥ってはならないとわたしは考えています。「邪馬台国はどうやって出現したのか」。邪馬台国というクニは、その歴史的な形成過程の中にきちんと位置づけ、魏志倭人伝をはじめとする史料も、真摯に史料批判を加える必要があります。わたしは、あくまでも合理的な考察として九州説を唱えています。特に鐙の件、反論を待っています。

(聞き手と記事 佐賀新聞社メディア戦略局記者 中島康晴)

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